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チェマダン「モスクワ滞在日記」より抜粋
2003年、米軍主導による多国籍軍がイラク侵攻による首都バグダッドでサダム・フセイン像が引倒される様子を、当日深夜テレビのニュースを通じて固唾をのみながら見守っていた記憶がある。ああ、まだこれはちょっと遠い世界なのかもしれないけれど、もしかすると大変な時代となって自分にも関わる激動の時代の始まりなのかなと、なに不自由なく、なんの闘争も関わらなかった20年程の自分の人生の記憶を辿り寄せながら、ようやく世界の複雑さを見つめていた。そのきっかけとなった9.11の時も、当時通っていた大学への通学途中で、何か不可解な号外新聞が配られていて、夜間大学の授業が始まるころには大凡何が起こっているのか複数のメディアを通してぼんやりと掴めるように見えてきたが、実際のことの顛末とその背景までには全く辿り付けなかった恐怖感に囲まれたことを覚えている。
それが直接的に、自分が経験してこなかった近過去への興味、自分がリアリティーを持って経験してこなかった冷戦構造への興味、日本人が経験しなかった共産主義社会下での生活、それがぞれが渾然一体となって、1989年のルーマニア革命を題材した作品「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」(※1)を2010年に現地で計画するに至った。フセイン象を倒される時に感じた新時代への希望と不安と、そしてなにより目の前で起こっていることの距離感が掴めないという、もどかしさが何であるのか。僕は明らかにこの世界に対して、新参者過ぎてこの顛末が全く理解できないまま、急激に変化するバグダットの路上に放置されたような、違和感を感じたのだった。ルーマニアのブカレストでは、一ヶ月間現地滞在して地元の共産党や1989年以前と変わらず共産主義をイデオロギ−とする政党を訪ねて、その党首を胴上げしたいと提案するものだが、もちろんこの局地戦では、ぼくの違和感は払拭されるどころか、さらに複雑な冷戦構造の内幕に侵入しなければ、帰ってこれないような気持ちにもなっていた。
さて、前置きが長くなったが、そのルーマニアのプロジェクトの翌年2011年にモスクワでの展覧会(※2)の話をもらった。さしあたり新作を作って欲しいという要望をもらったのだが、肝心のモスクワ、それどころかロシアに入国したことすらなかった。今となれば、2010年から2013年に渡って共産主義を巡るシリーズ作品を4つ作っているが、当初は全くこのようにシリーズ化するつもりはなく、モスクワでも全く新しい手法と新しい考えを基に作品を作ろうと考えていたし、現地にいけば何か新しいきっかけが掴めるかもという淡い期待で、とにかくモスクワの下見をさせてもらえるとのことで、2011年の夏に数日間モスクワ市内をぶらついた。考えてみれば、新作のために現地を観て回るという非常に贅沢な旅と時間の使い方だったと思うが、ことはそんなに簡単に進まなかった。結局のところ、ぼくが事前にリサーチした、きたるべく核戦争に備えてかソ連時代に地中深くに作られた地下防空壕の跡地を見学させてもらうことにした。その数や場所については、不明になっているところも多いが、一つは観光地と化して一般公開されていたし、もう一つは公開されてはいないが、ある博物館の地下に存在するという噂から、大使館を通じて博物館に交渉し内見させてもらうことが叶った。結論から言うと、残念ながらこの防空壕を見たからと言って新しいアイデアは浮かばなかった。確かにソビエトが地中に残していった興味深い遺産であることには間違いはないのだが…そんなことを考えているうちに予定していた日数をあっという間に消化してしまうという情けない形で帰国した。東京に戻り調べられることはできるだけ手を付けてみてはみたものの、あまり興味が持てず四苦八苦していると、ふとあることに気づいた。モスクワの下見でぼくが訪れたのは、すべて公共空間だけなのではないか?それはつまり社会的空間なのであって、例えば一般家庭やプライベート空間とは全く位相のことなる空間なのではないか?という疑問を持つようになった。表向きの社会体制としては、1991年を起点にソビエトの社会主義からロシアという民主化の道を歩んでいるのかもしれないが、それとは違った時間が一般家庭の中には存在するのではないか?という淡い期待と興味が浮かび上がった。2003年にバクダットの広場でフセイン像が倒されたように、1991年当時モスクワの広場でもレーニン像が倒されたけれども、一般家庭のキッチンや本棚、トイレ、靴箱の上、廊下、寝室のレーニンはどうなってしまっているのだろうか?おそらく、広場のレーニン像を引倒した市民も、自分の自宅にいるレーニンまではすべて引倒すこともできなかったのではないか?既に、生活のありとあらゆる空間を浸食していたレーニンを取り除くことは不可能なのではないか?自分たちでも気づいていない場所に、レーニンはまだまだ残されているのではないだろうかと…。
そこで、モスクワの美術館に家庭内に残されているレーニン捜索のためのチラシを印刷してもらい、ネットや雑誌、新聞広告を出してもらうようにお願いした。偶然にも、メドヴェージェフ大統領の1期4年の任期満了に伴うロシア大統領選挙(※3)が展覧会の直前に予定されていて、ちょうど僕の撮影日程と選挙運動機関が重なっていることを知ったのは、その直後だった。現地撮影のために、英語か日本語のできるロシア人通訳とカメラマンをお願いしての3人行脚が極寒の一月頃に始められた。真実は不明だが、テレビ放送ではマイナス28℃にもなる記録的な寒波の強い年であったようだ、その証拠にモスクワ市内の銀行ATMシステムが寒さで故障し、一時使えなくなるという珍事も起こった。モスクワの空港に到着すると現地の大使館、そして国際交流基金のスタッフが丁寧に迎えてに来てくれていた。ここは「ガサガサな街だから」という何とも言えない不思議な形容詞が印象的だったが、それもモスクワという街のモードを理解するためには、とても大切な会話だったのかもしれない。撮影の手順と日程は、おおよそ日本にいる間に計画してきていたので、モスクワでは市内でレーニン捜索のチラシ配布と市民からその反応をできるだけ得ること、またロシア大統領選挙というこれからの行く末を考える国の一大イベントに重ねるかのように、レーニンを捜索する歴史を逆行する行為がモスクワ市民にとって、どのように受け入れられるのか、もしくは無視されるのか、もしくは罵倒されるのだけなのか、そんな気持ちを持ったままモスクワに到着した。既に、カメラマンや通訳の知人友人を通して数人のモスクワ市民の家を家宅捜索しても良いという承諾を得ていたので、時間を見つけては、地下鉄駅のプラットフォームでチラシ配布(すべての公共空間において撮影の許可を得ることが非常に難しいとは言われていたが、作品のためにレーニン捜索のチラシ配布でさえ、美術館経由で申請するといとも簡単に許可が得られた、これはロシア社会がコネ社会であることの裏返しなのかもしれない)して、夕方から、お宅訪問をするという日々のスケジュールをこなしていた。
数日たって、ようやくぼんやり地下鉄駅のマップが頭に入ったところで、偶然(どこの駅近くか忘れてしまったが)警察が路上封鎖をしている現場に出会ったことがある。近づいてみると動員されている警察官がかなり若いことに気づく。まだ高校生か大学生のような、僕よりも随分と年下の青年たちが寒そうに、しかも若干緊張した趣きで整列している姿は、市民に対する威圧感というよりは警察官も上の命令によって、扱われている感が非常にあった。当日おそらくプーチン反対派のデモ活動を封じ込める策だったと思うが、効果や狙いは推測の域を出ない。僕は自分の作品のために、日々レーニンを捜索するチラシを撒いていたが、ある日モスクワの地下鉄でロシア語で罵倒されたことがあった。相手はぼくよりもずっと年上でおそらくソビエト時代も生き抜いてきた人なのであろう。彼が僕のチラシを見るや否やすぐに罵倒が始まっていた。こんな時代に、しかも大統領選挙が近いというのにレーニンなんていらねえ!自分のレーニンを捜してろ!と言われた。当たり前だ、彼は既に死んでいるので、会いたくてもこの世にはいない。大統領選挙にも出馬していないので、投票することも不可能だ。きっとロシア人の一般的な生真面目な感想としては、このようなモノが大多数なのかもしれない。「僕らはこれからのロシアの新しいリーダーと国の行く末を考えているんだ!」と言われたら、そんなもうとっくの昔になくなっているレーニンを墓石を掘り返して捜している場合ではない。いや、僕は家庭に取り残されているレーニンを…と言って説明したが、さして理解されずまま彼はすぐに去っていった。当然かもしれない、国というレベルの公共圏と一般市民のリビンクという私有空間を直結して考えてしまうのは、無理がある話だろうに。もちろん、僕の作品の意図としては、その無理が織り込み済みなのだが…。
撮影が進んで、チラシを見た一般市民からの連絡が徐々に届くようになり、さまざまなメールをもらったりして1日に3件も一般家庭を巡るような忙しいスケジュールをこなすなか、ロシア大統領選の日も近づいていた。あいにく僕の滞在1ヶ月程の中で、大規模なデモや動きは見られなかったが、偶然にも最終日、ぼくが日本への帰国便へ搭乗するその日に、比較的規模の大きなプーチン反対派のデモがあるということが分かった。国際交流金のスタッフの方にお願いして、飛行場までの道中ラジオ放送を流してもらうようにお願いした。勿論、ロシア語の放送なので、僕が聞いたところで、何の暗号なのかもさっぱり分からない雑音にしか聞こえなかった。同行してくれた通訳が、一部訳してくれたりするところによれれば、とにかく規模の大きなプーチン反対派のデモが市内で実施されていて、同時にプーチンを支持する親プーチン派の集会も行われているとのことだった。しかし、残念ながら空港に急ぐ車中からは、彼らの姿は一切見えなかった。そして、どこの国でも同じように実際の数とは全く違うような操作された参加者数が伝えられていたようであった。正直その数は覚えていないが、反対派が2万だとか3万人推定参加だと伝えられたら、プーチン支持派は、8万、10万人参加していると伝えられていたようだった。それでも、ぼくの視界には彼らが入ってくることがなかった。あっという間に、市内の大通りを抜けて、郊外へ抜ける通りまで来た。途中、銀行に寄って使い残したロシアのルーブル紙幣を日本円に換金したりして、ようやく風景も郊外らしきものになった。ここまでラジオが伝えるようなデモを目の前にすることなく、帰国の便に乗ってしまうことを若干心残りにも思いながら、滞在した建物のエレベーターのに貼られたデモ参加を促すチェブラーシカ(※4)のステッカーを思い出したりしていた。そう、最後まで僕はモスクワでのデモの熱気を間接的に感じ取りつつも、現実的対峙することなく、そしてそれがどのような現実の中での出来事なのか、把握することなく帰国してしまったのだった。レーニン捜しの作品のための撮影では、モスクワ中のいたる場所で、いたる家庭の中から多くのレーニンに関するマテリアルを発見し、最終的には本人がレーニンだと名乗る、タクシードライバー・セルゲイさんにも面会することが叶ったりもした。陳腐な言い方で言えば、国家体制が大きく変わったここ数十年のうち、表向きのシステムとは別のレベルで想像していたよりも、現実のなかに多くのドラマがあったようにも思えた。
そしてすべての撮影を終えて、市内のデモを見れないまま、その現実を横目に空港へ向かう道中、小腹が空いたということで、僕らは郊外のマクドナルドに立ち寄った。寒く冷えた身体のために、それぞれホットコーヒーとフライドポテトを1つ買ってみんなで食べながら、一説には、プーチン支持派のデモ参加者は、給料をもらった労働者がただ単純に歩かされているだけども囁かれたりもしていたが、真偽は確かめようがなかたモスクワの風景を眺めていた。くやしくもその現実になにも触れられず、世界中同じような味を提供するマクドナルドのコーヒーとフライドポテトを食べながら、東京で手にするものと同じ味わいと懐かしさに一瞬気が緩んだ。ぼくが見ていたデモは一体何だったのだろうか、こうやって自分の知らない場所と時間の中で歴史が作られていくのかもしれないと思いを巡らせながら、帰国した。