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天皇には苗字が存在しない。
歴史を遡ると日本人の苗字は、その多くの場合、土地の呼び名に由来している。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号したり、家を表すために出身地を付けたりしたのが苗字の始まりだと言われている。調べてみると、ウィキペディアの「苗字」の項目には以下のような記載がある。
「平安時代後期になると律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士が出現する。武士は自らの支配している土地の所有権を主張するために自分の所有する土地(本貫地)(名 - みょう)の地名を苗字として名乗り、それを代々継承した。また荘官であれば荘園の名称を、郡司であれば郡の名称を苗字とする者も現れた。」
ここで興味深いことは、上記の苗字とその所有権を主張するテリトリーの名前が直結されていることである。古くから、日本人の苗字とはそのテリトリーの所有権を他に知らしめるために、利用されてきた部分があると言ってもいいのかもしれない。誠に恐ろしいことであるのだが、それが代々受け継がれて現在に至るわけで、日本人の多くの苗字はそのように生まれてきたものであった。まずは、家を表す血族集団の名前が、土地の所有権と直結されていることだけをまず覚えていていただきたい。上記の流れから説明するならば、天皇が苗字を必要しないのは、その所有権を主張するテリトリーは言わずともわかるということなのかもしれない。
さて、そこからいきなり現代に戻ろう。
現在、日本国の戸籍法第57条は以下のように書かれている。
「棄児を発見した者又は棄児発見の申告を受けた警察官は、二十四時間以内にその旨を市町村長に申し出なければならない。
○2 前項の申出があつたときは、市町村長は、氏名をつけ、本籍を定め、且つ、附属品、発見の場所、年月日時その他の状況並びに氏名、男女の別、出生の推定年月日及び本籍を調書に記載しなければならない。その調書は、これを届書とみなす。」
面白いことに、日本の法律では棄児が発見された場合、その地域の市町村長が棄児に勝手に”氏名をつけ、本籍を定める”ことになっているという。制度的には、至極合理的かつ当たり前のことでもあるが、興味深いことは「名無しの者」は存在してはならないということである、名無しの者は存在を意図を持って消したい者であるか、もしくは社会的に抹消された者である。基本的には、現代では人は氏名を持ち、社会で管理されることが要求されているのである。氏名を持つということは、言い換えれば管理される者になるために必要な要素であることは間違いない。現代の管理社会の視点から言えば、名前がないということは、社会的に存在しないということを意味する。もしくは我々が認識できないほどに高度な存在であるかのどちらかである。
さらに名前を「呼ぶ」という行為まで話を進めてみよう。
基本的に、名前を使う行為そのものは、所有者本人ではなく、他者が使う場面のほうが圧倒的に多い。しかも他者が使わない限り、名前とは不完全なものになりうる。誰も丹羽良徳と呼ばない、丹羽良徳とは、本当に「丹羽良徳」なのかと疑問にすら思える事態にもなり得る。歴史的には、どうやら江戸時代までは、日本において庶民が公に苗字を名乗ることが控えられていたようである。苗字を”使う”のは原則として、公家及び武士などの支配階層に限られた。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年に「平民苗字許可令」を制定し平民に「苗字」の使用を許した。ここでは、まだ庶民が名乗り、呼ばれることが「許される」にとどまっている。苗字が土地の所有権と結びつくと認識されれば、当然のことだったのかもしれない。このように、近年まで名前というのは、権利と隣接し、下手をすれば意図せずに権利を振りかざすことになりうる非常に取り扱いに困る「あぶない」ものであった。社会がそれを制限していたと言ってもいいかもしれない。
さて現代。一応の表面上は国民が平等とされる社会となり、それぞれが氏名を持ち、名乗り、呼ばれる社会となった。誰にもでも苗字があって、名前があると疑わない。その平等が価値とされ、高度に発展した戦後資本主義社会のなかで「命名権ビジネス」は、あらゆる存在を対象にし錬金術のようにお金を生む不思議な装置として生まれた。
ここで僕が注目したのは、そもそも名前がない存在に「命名権ビジネス」を適応させることであった。フィリピンのゴミの山は、無計画に作られた法律によってゴミの焼却処理を禁じたために、必然的に生まれた負の遺産である。埋立地そのものの名前は、施設名として存在しているが、ゴミの山そのものには、名前が存在しない。登山や観光で訪れるような場所ではないので、名前がつけられないで当然である。むしろ、名前をつけてことで社会的な認識をされるのを避けたいくらいの存在である。そこに命名権ビジネスを適応させることで、社会的な地位を強制的に与えるという発想は、かつて武士が自分が支配する土地の所有権を主張するために用いた苗字のメカニズムを応用しようとしている。それは名前を持ち、呼ばれるということが、他にむけてその事物の責任=権利を主張することに他ならず、ゴミのようにできる限り放棄し、消滅させてしまいたい存在へ適応するということは、我々が日々生み出す廃棄物の責任を問うものである。