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新国立競技場の周縁を彷徨うのイベント後記より
今、世界的にみて国家という権力集団は見捨てられつつある。
恐怖と扇動意識を組み込んだナショナリズムを背景に国家の再強化の動きが各地で見られるのは、国家機構それ自体が感じ取っているかつて被支配者層へ及ぼしていた圧倒的な影響力が薄れたことへの抵抗を原動力としている。
2017年11月25日午後9時すぎから、数人の参加者とおよそ1時間をかけてだらだらと建設途中の新国立競技場を外周を彷徨いた。ゼネコンによる丁寧な遮蔽壁が外界との境界を明確に示しており、随所で工事日程や騒音規制に関する注意書きが見られたが内部工事は未だにブラックボックスのような様相であった。嫌が応にもこれから数年かけて、日本社会は夏季オリンピックを日本に無理やり持ち込んだにことにより、その前後で様々な未知のトラブルと付き合うことを予感させる。そして震災以降に加速しつつある日本政府と国民の間で深まった精神的な亀裂はある頂点を迎えるだろう。
いや寧ろ、表面的にはオリンピックゲームそのものは円満に終わるかもしれない。しかしながら問題はゲームそのものにあるだけではないし、日本政府が純粋なスポーツ愛好家の集まりではないことは誰もが知っている。つまり、誰もがこのオリンピック開催には経済効果や国威掲揚などの隠れた別の目的を達成するためにざまざまな権力が動員されている事実を確信している。おおかれ少なかれ別の政治的な目標を達成するため日本政府によってプロパガンダとして使われていることは、聖火リレーを開発したナチ政権下のベルリンオリンピックのように、またあらゆる国家がそのように動く宿命にあることも、すでに現代社会において帰属する国家を背負いながらスポーツ選手が競技を競い合う方式がスポーツとは無関係なのかは誰もが知ってる。
それでも東京オリンピックを開催する。不思議なことに、現代社会ではすでに多くの個人そして企業が国家や国籍の枠組みを超えた横断的な領域で活動しつつあり、その規模と存在感および影響力は既存の国家の枠組みを既に超えているように思われるにも関わらず、オリンピックは未だに国別競争方式を維持しつづける。どうしても国家対国家の争いというストーリーに持ち込みたいように思えてならないのは、前述のとおり国家そのものの影響が薄れつつある危機感に対する国家からの抵抗とも読める。たとえばアップルコンピュータ社が保有する資金量がアメリカ政府のそれを超え、様々な多国籍企業が各国で納税の争いを繰り返すようように、かつての国家の役割はある程度終了し新しい段階に突入している今、政府の思い描く国家を主役とするオリンピック物語などに引き戻されている場合ではない。
その反面、事実上の敗戦後の日本における国家理念は、ほとんどずたずたの空白状態だった。日本国はあらゆる価値が代入可能な便利な箱にすぎなかった。それゆえ戦後の高度経済成長では、経済成長という「神」を代入した時代であった。神が死に絶え新しいモデルが見つからない今、箱の醜さばかりが目立つ。かつて日本で浸透していたよりよい就職企業をみつけ「就社」することにより国の歯車となり間接的に国家に貢献してきた文化、つまり就職による社会参加していることを認められる文化はいくぶんか衰えを見せるが、未だに経団連などが独断で決めた就活解禁などという意味のわからないの制度を押し付けコントロールすることにより、支配者側の地位をかろうじて維持している。
大修館書店の「漢字文化資料館」によれば、日本語の「社会」と「会社」は、もともと「目的を共有する集団」という同じ意味をさしていたが、幕末の西洋文化流入の過程で新しい概念を日本語に翻訳するために工夫がなされ、明治初期に2はつの単語が分離され定着したと言われている、とされる。そうか、もともと同じ語源をもつ単語であるならば、会社に属すること=社会参加することを混同して日本社会で容易に受け入れられたのも合点がいく。このように就職による理念なき社会参加を強要した日本社会は、ある側面では意識的に国民に国家理念を考える機会を奪い、空白のままの状態に甘んじてきた。ぼくが11月25日の夜中、新国立競技場建設現場で見たものは、いまや見捨てられつつある巨大な醜い箱であり、廃炉予定の福島第一原子力発電所とよく似ている。おりしもオリンピックを超えて、我々は政府権力、国家との付き合い方、見捨てかたを再翻訳し導入する時期だろう。